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あなたがLinuxを使うべき10の理由

written by 齊藤 貴義 on

(2006年のエントリアーカイブから復活。内容は少し古いです)

あなたがMacを使うべき10の理由お前らがmacを使わないべき10の理由。を受けて。

xglOSは結局のところ、人の好きずきだし、それならば選択肢は多い方がいい。神学論争になっちゃうよりは、自分にあったOSを選択すればいいんじゃない、と思います。それは万人に対しても、WEB制作やプログラミングの世界でも同じ。そんな自分ですが、Macをオススメする記事がネットに出てきたなら、自分もLinux(特にSUSE Linux)をオススメする理由を書いちゃいます。 というかネタです(右の写真は、SUSE LinuxのXglの様子)
OS選択でWEB制作やプログラミング用にMacを使用すればギャンブル Apple Pay払いなどが利用できる利点があります。日本でもすでに発売となっていiphone15にも搭載されている近未来対応決済方法としてオンラインカジノの他にも公営ギャンブルに利用することができます。

LinuxはUnixではない

これ、オススメする大きな理由です。よくLinuxとUnixを混同される方がいるのですが、LinuxはUNIXではありません。LinuxはGNUプロジェクトに沿って発展してきていますが、このプロジェクトは、GNU is Not Unix(GNUはUnixではない)という再帰頭字語から構成されています。Linuxの目指すところは、Unix環境を実現するところにあるのではなく、UNIXライクな環境をフリーで実現させるところです。このフリーとは、無料という意味ではなく、再配布も改造も販売すらも自由という意味です。

この辺は、UNIXの後継を自称する(実際はUNIXそのものは既になく、存在するのは全てUNIX系のOSです)SolarisやMac OS Xとは異なります。LinuxはUNIX系列のOSに対するアンチテーゼから出発しており、UNIXの良い点を取り入れながらも、UNIXとは異なる自由な環境を目指しています。

UNIX系のシステムに関心を抱きながらも、UNIXにはない自由を求める方々にはLinuxがオススメです。ただ、UNIX系とLinuxはそれぞれに別の進化を遂げてきたOSであり、それぞれに固有の利点もあれば欠点もあります。チンパンジーとオラウータンのどちらが生物として優れているかとい う点ではなく、環境や特定条件に応じてそれぞれの特性を発揮すればようにと思います。

Linuxは比較的secureである

最近はLinuxやMacを狙ったウィルスも増えてきており、絶対安全とは言い難いのですが、Windowsほどの数やダメージがないため「比較的」安全です。ただ、セキュリティパッチを当て続ける必要があるのは、UNIX系も含めどのOSであれ同じです。

Linuxコミュニティには大勢の開発者が参加しており、ディストリビューションの差はありますが、脆弱性が発見されても比較的早期にセキュリティ パッチが出ます。セキュリティパッチのリリース速度というのは、OSを検討するときに考慮に入れた方がいい点かもしれません。SUSE Linuxは、YOUというアップデートシステムがあり、Windowsアップデートと同じような感覚でパッチの適用が出来ます(自動化もできます)。

Linuxは良いプログラム環境である

Linuxとは多くの場合、カーネルを共通とする各ディストリビューションの総称として用いられますが、各ディストリビューションには通常、GNU プロジェクトで開発された多くのパッケージが付属しています。その中には開発環境に関するパッケージも多数含まれています。元々Linuxが開発者の中で 育ってきたため、開発者にとって役立つパッケージが沢山あります。例えばSUSE Linuxでも開発に関して何百ものパッケージがインストールCDに含まれています。当然、ApacheもPerlもPythonもRubyもPHPも含まれています。

また、多くの開発ツールに関するプロジェクトのサイトでは、Linuxを想定したパッケージやソースコードを配布しています。必要に応じて、それらのサイトから最新版のパッケージやソースコードをダウンロードして自分のシステムに組み入れることができます。SUSEはヨーロッパでの利用者が多く、開 発の中心メンバーがヨーロッパの人々なサイトでは、SUSE用の独自パッケージを公開していることが多いですね。

Linuxは良いWeb制作環境である

本番WEBサーバーがLinuxというパターンはけっこう多いと思いますが、Linuxを普段からクライアントマシンにしておけば、ほぼ同一条件の環境をローカルにもつくることができます。画像処理にはGIMP(Photoshop やFireworksの基本機能はほぼ使える)が使えますし、HTMLエディタもNvuなどがあります。プログラム環境とデザイン環境の同居という点で、 Linuxはけっこう適しています。FTPやSFTPなどのGUIなソフトも色々ありますので、あとはそのソフトを使って本番環境にアップロードするだけ、という段階まで持ってくることができます。

ただ、UIの点でPhotoshopやFireworks、あるいはDreamweaverなどの商用ソフトに追いつき追い越せているかというと、 それは言い難い面があります。また、グループでデザインを共有して更新ということも弱いですね。ただ、ソフトにお金をかけずに少人数でサイトを更新、とい う目的ならば、Linuxはベストな働きをしてくれます。多くの場合、GIMPを使いこなせてないのはデザイナーの食わず嫌いな面が多い(そしてGIMP で代替できそうな作業を高い商用ソフトで行っている)という印象があります。そしてSUSE Linuxならば、confファイルを書き換えることなく、YaSTからウィザード形式で各種WEB環境の設定が出来ます。

Linuxにはいいsoftwareがたくさんある

何がいいかは人によって好きずきだし、慣れの部分も大きいと思いますが、Linuxでは1,000以上のフリーで開発されたソフトウェアを自分の好みに応じて導入できます。パッケージのインストールやアンインストールもGUIで直感的に行えますし(依存関係とか色々ありますが)、SUSEのYaST やKDEのコントロールセンターから各種ソフトの設定がウィザード形式で行えます。自分にとってベストな環境にとことんこだわってカスタマイズしていくこともできます。

snap6Linuxは画面がきれい

最近までデスクトップLinuxというと、「画面が汚い」「フォントが汚い」などユーザーをがっかりさせることが多かったですが、今はLinuxの デスクトップ環境は飛躍的な変化を遂げています。アンチエイリアスも有効にすることができますし、アンチエイリアスを掛けるモードも選択できます。複数のデスクトップ環境からお好みに応じて選択することができるし、各種デスクトップ環境でテーマを適用させたり、自分好みにデスクトップをカスタマイズしてい くことができます。DVI接続にも対応していますし、NVIDIAやATIなど各種グラフィックカードのドライバも出ています。

ただ、これにも光と陰があって、X Windowの見た目が向上した分、メモリの消費量があがり、美しいデスクトップ環境を実現するにはハードウェアにけっこうな投資をしなくてはなりませ ん。全体の動作にもやはりもっさり感が出てきます。ただ、Linuxはデスクトップ環境を柔軟にカスタマイズしていくことができますし、使っているハード ウェアに応じて適切な画面をつくっていくことができます。この選択肢の多さは、各種OSの中で群を抜いていると思います。

SUSE LinuxにはXglがある

ページ最上部の画像参照。

Linuxはかっこいい

「自由であること」は煩雑な選択や自己責任と表裏一体ではありますが、世界に出現しつつある新しい「秩序」に抵抗する力であることも確かです。一つのOSが市場を独占し、価格をつり上げ、ユーザーを管理して囲い込もうとしています。Linuxはそれに対して、自由を提唱しています。誰もが自由にOS を手に入れることができ、改造することができ、販売することもできます。コンピュータを閉ざされた世界からオープンな世界にしていこうと活動しています。

(これは哲学的なものやスタイルにとどまらず、途上国や中小企業がコンピュータビジネスへの参加機会を押し広げることにつながり、IBMなど大企業のさらなる発展の方向性を与えるなど、実益も生み出しています)

信頼性とコストが要求されるサーバー市場でLinuxとMicrosoftは激戦を繰り広げ、ほぼ引き分けています。サーバー市場での戦いは今後も続くでしょうが、今後の激戦が予想されるのは、おそらくデスクトップ市場でしょう。単一の秩序が勝つか、多様な自由が勝つか。デスクトップの世界でもユー ザーのスタイルが求められています。自由な価値を「かっこいい」と思う人々であれば、Linuxを選択肢に入れるのは良いことではないかと思います。

LinuxはiPodに入れられる

iPodの中にLinuxをインストールすることができます。iPodの中にLinuxをインストールすると、ゲームなど色々なアプリを動かしたり、色々な動画を再生できたりします。PS2やXboxで動作するLinuxもあります。

Linuxには自由とコミュニティがある

Linuxの最大の特徴であり、利点であるのは、自由とコミュニティです。Linuxは自由を目的としてコミュニティベースで開発されているOSで あり、自由に改変したりコミュニティから様々な恩恵を受けることができます。使い込んできたら、コミュニティへフィードバックすれば、ますますLinux やコンピュータの多様な発展に貢献していくことにもつながります。

OSは人や用途によって様々ですし、デュアルブートや仮想化を使うことによって複数のOSを使い分けることができます。OSごとによる機能やアプリ の差は小さくなってきていますし、残されているのは自由を志向するかという理念的な部分と、活用スタイルの部分になってきています。Linuxはその中で も選択肢の一つとして一考の価値に値するのではないかと思います。「べき」とまではいかないですが、オススメです。

右翼と左翼

written by 齊藤 貴義 on

なぜ右翼には低学歴と低所得が多いのか

推論上の飛躍(inferential leap)が多い文章のように思います。まず議論の前提として、右翼・左翼の定義が明確化されておらず、「好戦的であることは、移民に対して排他的であることと並んで、右翼の大きな特徴であり、左翼との大きな違いであると一般に認知されている」などの筆者の印象論から右翼像と左翼像の傍証を試みているにすぎません。

この文章が出しているデータは、外国人労働者に対して排他的な意思を持つことに本人学歴や本人年収と関連性がありそうというデータだけであり、そこから低学歴で低年収な人々が戦争を望んでいる右翼的傾向を持つと推論するには、あまりに多くの飛躍があります。外国人に対して排他的な意見を持つことは、筆者が指摘しているように学歴や年収が低い層が直面する確率が高い単純労働の世界では外国人労働力が彼らの代替可能な労働力として国際競争に立たされているという経済状況による意思の形成であって、右翼思想や戦争に関する意思の形成ではないのです。

またプロレタリア右翼として赤木智弘氏の”「丸山眞男」をひっぱたきたい―31歳フリーター。希望は、戦争。”が引用されていますが、そもそも赤木氏の戦争や日本社会に対する考え方が広く低学歴・低年収の層の考え方と相関しているのか、という重要な論証が一切なく議論が進んでいきます。一度この辺は社会調査で重回帰分析を掛けてみなければ、推論に推論を重ねるという状況に陥るだけではないでしょうか。

つまり本論には日本社会に適用できるという蓋然性が乏しいのです。蓋然性が乏しいまま描かれた右翼像や左翼像は虚像でしかありません。理論には実証が伴わなければなりません。実証データが整っていない中で右翼という心性の問題を浮かび上がらせるのは難しいのです。

(教育社会学などの分野では文化資本の問題をSSM調査・関西調査・関東調査などの社会調査を重回帰分析することで、文化資本と親の学歴などの相関係数を統計的に分析しようとしています。右翼と左翼という心性の問題に関してもこのような社会調査と実証研究の拡充を願っています)

日本社会学会

written by 齊藤 貴義 on

第82回日本社会学会が、2009年10月11日と12日に立教大学で開催されます。
一般研究報告Ⅲ(テーマセッション)の内容は以下の通り。会員ではないけど参加検討しようかな。

【1】テーマ:ハロルド・ガーフィンケルの業績の再評価

(1)コーディネーター:浜日出夫(慶應義塾大学)

(2)趣旨:日本におけるエスノメソドロジー研究は、ここ十年ほどの間に、多くの成果を蓄積してきた。90年代後半以降、日本語のモノグラフも多く出版されるようになり、また日本に研究基盤を持つ研究者が海外に研究成果を発信するようになっている。ハロルド・ガーフィンケルの『エスノメソドロジー研究』の出版から40年を経たいま、このような状況を踏まえ、いま一度ガーフィンケルに立ち戻り、ガーフィンケルの業績を再評価する機会を持ちたいと思う。日本におけるエスノメソドロジー研究は、いくつかの点で独特である。おもに三つの資源を持ち、これらが分離することなく、生産的に刺激し合う環境がある。その三つの資源とは、シェグロフを中心に展開されている会話分析、シャロックやクルターらの(ヴィトゲンシュタイン派の)概念分析、そして現象学の伝統である。これら三つの資源にもとづく現在の研究を、ふたたびガーフィンケルの基本的な考えに差し戻し、今後のエスノメソドロジーの展開の可能性を展望したい。
日常生活を送るための方法論の研究という研究方針は、社会学の根本的な方法論的反省を促すことになった。この研究方針は、現在の状況のなかで、どのような含意を持ったと評価できるのか。エスノメソドロジーは何を達成したのか。このあと、どのような社会学的研究の展開がありうるのか。このようなことを考える機会になればと、考えている。
日本のエスノメソドロジー研究は、すでに海外の様々な地域における研究と共振しながら展開している。今回のテーマセッションでは、日本以外の非英語圏におけるエスノメソドロジー研究者にも積極的な参加を呼びかけたい。最後に、このセッションには、来日を予定しているガーフィンケル本人にも参加いただき討論に加わってもらえればと思っている。したがって、すべての報告は、英語であるか、英訳の配布を伴うものであることが望まれる。

(3)キーワード:ハロルド・ガーフィンケル、エスノメソドロジー、会話分析、概念分析、現象学

【2】テーマ:マンガ研究と現代社会:現代社会を読み解く手立てとしてのマンガの可能性

(1)コーディネーター:茨木 正治(東京情報大学)

(2)趣旨:現代社会が多様な価値・多様な様相・構造を持っていることは論を俟たない。そうした複雑性を持つ社会に生きざるを得ない我々は、どのような手立てを持って接していったらよいのであろうか。そこで、本テーマセッションでは、多様性を持つといわれるマンガというメディアおよび社会学の視点を用いて現代社会の多様性を読み解くことを考える。
 マンガは、多様な対象領域をもつだけでなく、表現形態においても紙媒体や映像媒体その他にいたるまで多種多様である。これに対応してマンガ研究もまた、遅まきながら多様な様相を示している。たとえば、日本社会学会においても、2005年度第78回大会において「マンガ研究と社会学」というテーマセッションを行った。それ以降でも、少女マンガは、様々な領域に対してマジョリティによる「自然化」された視点を超えて、マイノリティの視点や、上記二つの視点を統合した新たな視点を構築している。また、新聞マンガ研究では、地方紙の分析によって、いわゆる「地域分権」型コミュニケーションを作るメディアとして見直されつつある。マンガの内容の分析では、マンガ表現論が提示され実証化の試みがなされている。加えて、産業構造の分析からマンガ制作(送り手)の分野で、また質的研究から多様な読者像に迫る受け手研究などが行われている。
 しかしながら、これらの研究が相互連関を持つまでには至っていない。このためには、基盤となる社会学的認識・理論および方法、もっと広く現代社会を読み解く社会学の諸研究が必要である。たとえば、前述したマンガ産業からの考察では、文化産業論が理論的背景として用いられている。また、内容分析においては、マス・メディア論、コミュニケーション論、文化研究が援用されているが、それぞれの場合とも十分ではない。むしろ、様々な社会学の視点・対象・方法からマンガがどう扱えるのか、それによって現代社会を、従来の社会学的考察とは異なってどのように描き出せるのかを提示したい。それによって、マンガ(研究)・社会学研究そのものが持つ意義についても考察の道を開くことができればと考える。

(3)キーワード:マンガ(研究)、社会学諸理論(アプローチ・視点)、現代社会

【3】テーマ:ライフコースと社会変動:アジアの20−21世紀再考

(1)コーディネーター:山根 真理(愛知教育大学)

(2)趣旨:セッションの趣旨は、アジア諸地域におけるライフコースと歴史的時代のかかわりについて議論する場を設けることをとおして、アジアの20−21世紀を再考する視角を得ることにある。よく知られているように、個人の人生の出来事と歴史過程のかかわりをみる研究は1970年代のアメリカで登場し、G. エルダー、T. ハレブンなどの代表的な著作を生み出してきた。日本でもこの視角は1980年代に定着し、森岡清美、青井和夫、正岡寛司、安藤由美など、多くの研究蓄積がある。しかしアジア諸地域に視点を広げ、人生と歴史的時代のかかわりを包括的に捉える研究は、なされてこなかった。
 このセッションは、上記の認識にもとづいて2007年度から運営してきた科学研究費プロジェクト「アジア諸社会における高齢者のライフコースと社会変動:家族イベントを中心として」の成果を公表するとともに、関心を共有する研究者との討論を通して、テーマにかかわる統合的な視角を得ることを企図して企画するものである。このプロジェクトでは、韓国、中国、日本、フィリピンで、1920年代から1940年代生まれの方を対象にしたライフコースの質問紙調査を、台湾、ベトナム、ミャンマーなどでは、各研究者の問題関心に応じて「人生と時代」を捉えるインテンシブ・インタビュー調査を実施してきている。特に「植民地期」を含む歴史的時代と人生のかかわりを、高齢者の方々に直接伺う機会としては最後であり、貴重な記録だと考えられる。
 セッションの中心的な論点として、二つの論点が予想される。ひとつは出産、子育て、介護など、女性が中心になることが多い家族イベントに焦点を当てることで「アジア諸地域の家族・ジェンダーの伝統と近代」を再考する認識がひらかれることである。いまひとつは、「国」の枠組みを越える移動が人生に与える影響である。植民地支配がなされた時期と、グローバル化がすすむ現代が、「移動と人生」にかかわる二つの焦点的な時期になるであろう。
 テーマに関心のある方々の応募と参加を歓迎します。

(3)キーワード:ライフコース、アジア、家族、ジェンダー、移動

警察とは何か

written by 齊藤 貴義 on

社会の中での警察用語

警察・・・ 広義には、公共の安寧秩序の維持、事故や犯罪の危険から個人や財産を保護することを意味する。狭義には、犯罪の予防や摘発を含めて、公共の秩序と安寧を保持し、法律を執行する責任を持つ公務員の組織体を指す。行政法学上は、社会公共の秩序を維持するために、一般統治権に基づき、国民に命令、強制し、その自然の自由を制限する作用と説かれている。実定法上は、「警察は、個人の生命、身体及び財産の保護に任じ、犯罪の予防、鎮圧及び捜査、被疑者の逮捕、交通の 取締りその他公共の安全と秩序の維持に当ることをもってその責務とする」(警察法)と規定されている。なお、「警察」という言葉は、明治時代に「警戒査察」を省略して使われたのが起源といわれている。


日比谷焼打事件・・・ 1905年9月5日、日露戦争の講和条約に反対する講話問題同志連合会など9団体が、日比谷公園で条約調印反対の「国民大会」を開くことを決定していた。 これに対し警視庁は大会の開催阻止を決定、日比谷公園を封鎖した。集まった3万人もの群衆は警察の不法な封鎖に反発し、柵を破壊して公園内に殺到した。大会終了後、群衆は二重橋前で警官隊と衝突。演説会が予定されていた新富座でも、群衆が警察の解散命令に反発して乱闘となった。さらに群衆は、国民新聞社・ 内務大臣官邸なども襲撃したが、この時、巡査が抜刀して斬りつけ、群衆の怒りはさらに高まった。群衆はさらに、警察署2カ所を襲撃し、東京市内の8割にの ぼる258カ所の交番所・派出所を破壊した。6日には戒厳令が施行され、軍隊が出動した。この日比谷焼打事件で、死者は17人、検束者は2000人にも上った。事件直後、各新聞は一斉に警察の弾圧政策を批判し、警視庁廃止論もわき起こった。

この事件の背景には、講和条約への人々の憤激以外に、庶民生活の隅々まで強権的介入をするようになってきた警察制度に対する強い不満と恐れもあったと言われる。日比谷焼打事件に強い衝撃を受けた政府や警察官僚は、事件を徹底的に検証し、新たな大衆運動に対して警戒を厳しくすると共に、「警察思想」の民衆への普及、公安に害がない場合の不干渉主義、 私服巡査の活用による密偵活動などの措置を考案した。


米騒動・・・ 1918年、シベリア出兵などの影響で米価の高騰に苦しんでいた民衆が、全国各地で米屋、資産家の住宅、警察などを襲撃した。この米騒動は警察力だけでは鎮圧できず、全国120カ所で軍隊も出動することになった。しかし、騒動の中で、日比谷焼打事件の教訓が活かされた事例が多数報告されている。制服警官が民衆に暴力を振るうよりも言葉による説得を重視する一方、私服警官は騒動の中に入り込み首謀者を特定して群衆に隠れた場所で逮捕した。さらに、各地の青年団・在郷軍人会・消防組などを中心とする「自衛団」を警察協力組織として活用し、騒動の広まりを防止した。


「民衆の警察化、警察の民衆化」・・・ 1921年、警察官僚の松井茂が雑誌『太陽』に発表した論文のタイトル。松井は、民衆にとって警察が怖れの対象であることに危機感を抱き、警官が民衆に対して「親切丁寧」であるとともに、民衆にも「我々国民の警察である」という意識を芽生えさせて民衆の中に警察への「同情者」を増やしていく必要性を唱え た。大正デモクラシーの機運の高まりと共に警察のあり方も揺れており、民衆との距離を埋めていく必要があった。この後警察は、全国で交通安全キャンペーンの展開、小学校の児童を招いての警察署見学、社会奉仕日を設定して各地で奉仕活動、警察展覧会の実施、人事相談所の開設、民間の有志による警察協力団体の 組織化などを行った。これにより警察が民衆にとって身近な存在であることを印象づけ、民衆を積極的に秩序維持に協力させていくことに成功した。


関東大震災・・・ 1923年9月1日、関東地方でマグニチュード7.9の大地震が発生した。この地震によって関東各地の警察機構も一時マヒ状態になった。政府は戒厳令を施行し、被災者の救援と治安維持のために軍隊を出動させた。その一方、民衆の側にも「自警団」と呼ばれる団体が自発的に組織された。自警団は関東各地で3689もの数が組織されたといわれる。自警団に参加した人々は、被災者への救援活動を行う一方、日本刀・棍棒・竹槍・ノコギリ・銃などの武器を所持し、 町村の要所に非常線を張って不審者へ検問した。震災の被害による恐怖と混乱の中で、「朝鮮人が爆弾を投げている」とか「朝鮮人が井戸に毒物を混入した」などのデマが広まり、自警団は朝鮮人を発見すると虐殺を行った。自警団によって殺害された朝鮮人の総数は、6000人にものぼると言われる。

警察は、デマの拡大を阻止する一方、自警団への統制を行って治安維持のために積極的に活用した。自警団の方も警察へ各種の協力を行い、朝鮮人を虐殺した人々の多くが震災後に不起訴となった。また、自警団のような地域の警察協力組織はかたちを変えて震災後も残され、その後の警察行政が広く民衆にまで貫徹する基礎となった。「民衆の警察化、警察の民衆化」を唱えていた松井は、この自警団を高く評価し、「国民皆兵」であると共に「国民皆警察」である必要があると説いた。

議論の種類

written by 齊藤 貴義 on

今まで、議論とは何か、議論がどういう構造になっているかを見てきました。このページではさらに、議論をいくつかのタイプに分類し、それぞれの基本構造、使用上の留意点、実例などを紹介していこうと思います。

1.「一般化」(Generalization)による議論

▼基本構造

一般化による議論においては、データは通常、多くのサンプルによって構成されます。そして、そのデータDから、許容しうる一般化ができることを、理由づけWは示さなければなりません。

▼使用上の留意点

(1)個々のサンプルについての情報が正確であり、聞き手の承認を得ていること。
(2)個々のサンプルについての情報が議論の目的にとって適切なものであること。たとえば最新の問題について議論する際に、百年前の情報をもってきても(内容にもよるが)不適切な場合が多い。
(3)充分な数のサンプルが考慮されていること。
(4)サンプルの選択が恣意的、一面的ではないこと。
(5)否定的サンプルが、その質と量において、主張Cの一般的信憑性を無効にするほど優勢ではないこと。

▼実例

(D)西欧諸国では国民所得の向上に伴って家庭での牛肉の消費量が増大した。アメリカでも国民所得の向上に伴い、牛肉の消費量が増大した。日本も高度経済成長以降、牛肉の消費量が飛躍的に増大した。中国も現在、急速な経済発展の途上にあるが、牛肉の消費量は年々増大している。
↓−−(W)なぜなら、経済発展を遂げた国々がほとんどそうであるならば、このことは世界中どの国においても、一般にそうであろうから。
(Q)おそらく
(C)経済発展を遂げた国においては牛肉の消費量が増大する−−(R)牛肉を食べることについてタブーとする倫理観のある国でないかぎり

2.「類似」(Literal Analogy, or Resemblance)による議論

▼基本構造

類似による議論では、あるデータから、それと同一のカテゴリに属する他のケースに関する主張が導き出される。データDから主張Cへの推論上の飛躍は、データにおけるケースと、主張におけるケースとが、本質的諸点において類似していることによって正当化される。

▼使用上の留意点

(1)データにおけるケースと、主張におけるケースとが、同一のカテゴリに属すること。二つのケースが異なるカテゴリに属するものは、「比喩」による議論となってしまう。
(2)データの内容が正確であり、聞き手の承認を得ていること。
(3)データにおけるケースと、主張におけるケースとが、重要な諸点について類似していること。
(4)二つのケースの間の差異が、主張の正当性を無効にするほど決定的でないこと。

3.「比較」(Comparison)による議論

▼基本構造

比較による議論は、何かが起きる可能性が低いところで起きたならば、高いところではなおさら起きるといったような比較によって、推論上の飛躍が正当化される議論である。

▼使用上の留意点

(1)比較される二つのケースが同一のカテゴリに属する事柄であること。
(2)データの内容が正確であり、聞き手の承認を得ていること。
(3)程度の比較が正当であり、聞き手の承認を得ていること。

4.「分類」(Classification)による議論

▼基本構造

分類による議論は、あるカテゴリについて一般に認められた事柄や、先立つ議論によってその正当性が立証された事柄から、そのカテゴリに属する個別的ケースの主張を導き出そうとする議論である。

▼使用上の留意点

(1)データの信憑性が、聞き手を含めて一般に承認されていること。
(2)主張におけるケースが、データで一般的情報が述べられているカテゴリに属するものであること。
(3)主張におけるケースが、そのケースに属するカテゴリの中で例外的ケースではないこと。

5.「徴候」ないし「シルシ」(Sign)からの議論

▼基本構造

複数の事実から、それらの事柄が何かの徴候になっていることを主張する議論です。データが主張で述べられていることのシルシになっていることを証明することによって、この議論は成立します。

▼使用上の留意点

(1)データを構成する個々の事柄が事実であり、聞き手の承認を得ている。
(2)データを構成する個々の事柄が当面の目的にとって適切であること。より具体的には、それぞれの事柄が徴候であることを示していること。
(3)できるだけ多くの徴候が考慮されていること。
(4)否定的徴候が、その質と量において、主張の一般的効力を無効にするほど優勢ではないこと。

6.「因果関係」の議論(Causal Argument)

▼基本構造

「このようなデータが存在する以上、その当然の結果としてこの事柄が発生する」という構造によって、主張の確かさが立証される議論。データと主張との推論上の飛躍は、両者が原因−結果の因果関係にあるということによって正当化される。

▼使用上の留意点

(1)データの内容が事実であり、聞き手の承認を得ていること。
(2)データの内容が当面の目的にとって適切であること。具体的には、データが主張で述べられていることの「原因」であること。
(3)原因−結果の関係を断ち切るようなファクターの存在が予想されるときには、それらが充分考慮されていること。

7.「ルール」(Rule)に基づく議論

▼基本構造

データから主張への推論上の飛躍が、法、規則、慣習などといった、社会制度の中で制度化されたルールによって正当化される議論。

▼使用上の留意点

(1)データの内容が正当であり、聞き手の承認を得ていること。
(2)問題のルールの実在および内容が、聞き手にとって充分理解されていること。

8.「理念」(Idea)ないし「信念」(Belief)に基づく議論

▼基本構造

理念や信念によってデータから主張への推論上の飛躍が正当化される議論。法として社会システムの中で制度化されている理念もあれば、法制度はないが広く一般に承認されている通説、少数者によってのみ支持されている理念などもあり、多義的である。

▼使用上の留意点

(1)データの内容が適切であり、聞き手の承認を得ている。
(2)理由づけを構成する理念や信念の正当性が一般に広く承認されているか、もしくは、それに先立つ議論によってその正当性が充分に立証され、聞き手によって正当であると承認されていること。

9.「定義」(Definition)による議論

▼基本構造

言語によるコミュニケーションが成立し、それが一定の成果をあげるためには、そこで用いられる用語についての共通の了解が不可欠となる。その了解を定式化したものが定義であり、定義を理由にして主張の正当性を立証しようとしたものが、定義による議論である。ただし、この定義による議論は、特に社会生活などに関わる用語において、理念やルールによる議論とオーバーラップすることも多い。

▼使用上の留意点

(1)データの内容が適切であり、聞き手の承認を得ている。
(2)理由づけを構成する定義の正当性が一般に広く認知されているか、もしくは、それに先立つ議論によって充分立証され、聞き手の承認を得ていること。

10.「証言」(Testimony)に基づく議論

▼基本構造

様々な種類、様々な内容の証言をデータとし、それによって主張を正当化しようとする議論が、証言に基づく議論である。この議論では、データから主張への推論上の飛躍が、当の証言がその議論の文脈においてもつ信憑性によって正当化される。

▼使用上の留意点

証言に基づく議論が説得力をもつための条件は、その証言がいかなる種類に属するものかによって異なる。ここでは、個別の種類ごとに留意点を整理しておこう。

専門家の意見や判断がデータとして用いられる場合
(1)その人物や機関がその問題についての権威であること。
(2)その人物や機関がバイアスからできるかぎり解放されていること。その問題について直接的な利害関係や情緒的なコミットメントをもつ人物や機関の証言は、割り引いて考える必要がある。
(3)その人物や機関が、その問題に関する第一次資料を充分検討したうえで結論を出していること。
(4)その意見や判断に内的不整合が見られないこと。
(5)その人物や機関が、その証言と両立しえないような証言を他の機会で述べていないこと。
(6)その証言と両立しえない証言が他の専門家によってなされている時には、その証言よりも信用のおけるものであること。
(7)その証言が多くの他の専門家によって支持を受けていること。ただし、これは絶対条件ではない。
(8)その人物や機関の証言が適切に引用されていること。

統計資料がデータとして用いられる場合
(1)専門的調査機関によって作成された統計資料であること
(2)統計学上のルールや手続きを満たした統計資料であること。
(3)正確に引用されていること。

目撃者(体験者)による証言がデータとして用いられる場合
(1)事件当時、目撃者が、正確で客観的な観察の妨げとなりうるような肉体的、精神的欠陥をもっていなかったこと。欠陥があった場合には、その欠陥にも関わらず目撃者の証言が信用に値することが立証されていること。
(2)観察が不都合な条件下でなされていないこと(観察距離や明るさなど)
(3)証言者が、バイアスによって歪められない客観的な観察をなしうる立場の人間であること。
(4)証言内容に内的不整合がないこと。
(5)他に異なった、両立しえない証言があるときは、それより信用のおけるものであることが立証されていること。
(6)故意に誇張された証言や、虚偽の証言ではないこと。
(7)証言が正確かつ適切に引用されていること。

11.「比喩」(Figurative Analogy)による議論

▼基本構造

比喩による議論は、それ自体としては主張の確かさを立証することができないが、主張の確かさ、もっともらしさを印象づけるうえで大きな効果を発揮する。この議論は、一般に広く知られている事柄から、それとは別なカテゴリに属することについての主張を導き出そうとする。データには、たとえ話、伝説、伝承、歴史的エピソード、ことわざ、古典(聖書や文学作品など)の一節など、様々なものが用いられる。この種の議論では、データと主張のケースが、ある種の共通点(比喩的類似)が存在することによって正当化されるが、推論上の飛躍は、今まで見てきた議論ほどは正当化されない。

▼使用上の留意点

(1)データを構成する事柄が、一般に広く知られたものであるか、聞き手が即座に理解し受け入れることのできるものであること。
(2)データにおけるケースと主張におけるケースとの間の共通点が、聞き手によって容易に理解されうるような明快なものであること。

ハイパーご冥福タイム

written by 齊藤 貴義 on

最低限これだけ押さえておけばヘッドラインもスラスラ読める、日本の頻出現代ネット用語20選+α

ほとんど聞いたことがある言葉だったが、「ハイパーご冥福タイム」だけ馴染みがなかった。Googleで検索してみると

“ハイパーご冥福タイム”で12件」「”ハイパーご冥福ターイム”で38件」。

Googleのフレーズ検索でほとんどヒットしないと言うことは、頻出ではなさそうだ。

議論の構造

written by 齊藤 貴義 on

Difficult meeting議論の構造を分析しよう

相手の理性に訴えかけて自己の主張を述べようとするとき、私達は自分の主張を裏付ける理論や事実を示さなければなりません。根拠がなければ、議論はただの言い争いになり、説得力を失ってしまうためです。これは何も難しいことではなくて、たとえば幼児でも、「この前、日曜日につれていくって約束していたから」、「遊園地に行こうよ」、という具合に、もっともらしい理由をあげることを体験を通じて学んでい ます。このように、議論は、一般に主張(結論)と、それを正当化するための根拠(前提)によって構成されています。この根拠は、一つ、または一組の証拠となるべき事柄によって構成されています(右画像Creative Commons License photo credit: Simon Blackley)。

具体例

「近年の韓国は日本の文化を積極的に開放している」から、「今後、韓国では日本文化に対する理解と交流が深まっていくだろう」と結論する。

「インドネシア、チェチェン、コソボなど、冷戦時代には想定していなかった地域紛争が世界中で発生している。さらに、これらの問題を包括的に対処しうる国際秩序が形成されていない」から、「冷戦後の世界にとって、この地域紛争の解決が重要な問題となる」と結論する。

議論道場では、結論を導き出すための直接の証拠をデータ(Data 以下Dと表記する)、データから導き出された結論を主張(Claim  以下Cと表記する)と命名します。データは、議論をする相手にとって納得しうる内容のものでなければなりません。自分にしか納得できないデータをいくら並べたところで、相手の理性に訴えかけることは不可能であるためです。「我が党の機関誌には、こう書いてあるんだ」と述べても、「私の信じる宗教では、こ の認識に立っている」と述べても、そこから示されているデータに普遍性が存在しなければ、同じ党員や同じ宗教の人しか説得できなくなります。

また、厳密に考えた場合、主張はデータと同義語またはそれに等しいものでないかぎり、推論上の飛躍(inferential leap)が存在します。そこを突いて、「韓国が日本の文化を開放しているからといって、日本文化への理解や交流が深まるとは言えないのではないか」という有効な反論を提示することも可能です。このような反論に答えるためには、主張者は、データからその主張がなぜ導き出せることの合理性を立証しなければなりません。先の例について言うならば、「なぜなら、文化の輸入がその国への理解や交流の原動力になるから」ということを論証しないかぎり、主張は正当性を欠いたものになります。

このように、「データからなぜその主張に達することができるのかを立証したもの」を、ここでは理由づけ(Warrant 以下Wと表記する)と呼ぶことにします。理由づけは、明言されない場合があります。しかし、この理由づけがいかなる構造になっているかは、意見を分析して有意義な議論を展開する際の大きなカギとなります。

さて、今まで見てきたなかで、議論が大きく三つの部分によって構成されていることが明らかになったと思います。すなわち、「データ」「理由づけ」「主張」です。D→Cへと続く過程に、Wが入ることによって、議論はより論理的になります。


次に、この三要素を基礎としながら、もう少し議論の構造を詳しく見ていきましょう。議論はD→W→Cへと至るプロセスによって構成されますが、このうち、理由づけWが、データDから主張Cへの移行を百パーセント保証するものを、必然的議論(necessary argument)と呼ぶことにします。それに対して、理由づけWが、データDから主張Cへの推論上の飛躍をかなりの程度に保証することはできても、百パーセント保証することはできない議論を、蓋然的議論(probable argument)と呼ぶことにします。社会問題のような複雑な問題を対象として行われる議論は、どうしても蓋然的議論が多くなります。

蓋然的議論においては、百パーセント真実ではなくても、蓋然的なものもデータとして使うことができます。つまり、蓋然的議論は、真実もしくは蓋然的なデータに基づき、完全とは言えない理由づけによって、主張の蓋然性(もっともらしさ)を正当化しようとする議論であると言えます。

蓋然的議論を展開するためには、D→W→Cのプロセスがどの程度確実か、明示される必要があります。その明示の程度を示す要素を、ここでは限定語(Qualifiew  以下Qと表記する)と呼ぶことにします。このQの程度が、「・・・になる可能性もないとはいえない」くらいであれば、議論の分野や目的にもよりますが、 説得力のある議論を展開することはできません。「・・・になる可能性が非常に高い」ということを立証していくことが、議論を展開していく際に不可欠であります。

さらに、蓋然的議論において、理由づけWは、いかなる状況においても当てはまるとは限りません。理由づけWは、あくまでも一般的正当性しか有さず、例外が存在する場合があるためです。このような場合、誤解や議論が本旨から外れることを防ぐために、例外的なケースをあらかじめ想定し、議論の留保条件として明示しておくことが望ましいと言えます。このような留保条件を、ここでは反証もしくは留保(Rebuttal or Reservation 以下Rと表記する)と呼ぶことにします。

また、理由づけWは、真実である場合もあれば、蓋然的である場合もあります。時には、理由づけWの信憑性を裏付けるために、さらに資料が必要になる場合があります。このような場合、理由づけの裏付け(Backing for Warrant 以下Bと表記する)が必要となってきます。

最後に、議論をこのような構成要素に分類したトゥールミンという人が、例としてあげている議論の一つを紹介します。

(D)ハリーはバミューダーで生まれた
↓−−(W)なぜなら、バミューダーで生まれた者は英国人になるから−−(B)「英国領で生まれた者の国籍に関する法律」によって、そのように定められているから
(Q)たぶん
(C)彼は英国人であろう−(R)彼の両親が共に外国人であったり、彼自身がアメリカに帰化したのでないかぎり

以下は、この形式を使った一例です

(D)中国経済は急速に発展している
↓−−(W)なぜなら、国際社会において経済力のある国は発言力を強めているから−−(B)アメリカや日本、EUなどのように、経済発展を遂げた国は、他の発展途上国と比較して、国際社会で大きな発言力を有しているから
(Q)かなりの確率で
(C)国際社会での中国の発言力は強まるだろう−(R)中国の経済が早期に低迷したり、政治の混乱が拡大しないかぎり

議論とは何か

written by 齊藤 貴義 on

議論とは何か

Saviour

私たち人間は、一人で生きていくことはできません。そのため、家族、学校、企業、地域、国家などの様々な集団に所属し、その中で「他の誰か」と共に社会生活を送っています。この世界に一人として同じ人間がいない以上、そのような状況の中では、様々な問題群を巡って、認識や考えの違いが表面化してくることがあります(右写真Creative Commons License photo credit: hapal>)。

この場合に取りうる選択肢として、まず次の二つがあると思われます。1.自分の意見を表に出さずに当面の対立を回避する、2.自分の意見を主張して相手に同意を求める(より良い意見を探す)。この1と2の選択のうち、どちらが望ましいかは、状況や個人の信条などに大きく左右されるため、一言で決めることはできません。

しかし、争点となっている事柄が自分にとって重要な問題である場合、または、その問題に関して自身の見解を他者から要求されている場合などには、自己の主張を展開し、相手を説得する必要性が生じてきます。それでは、相手に自分の主張を承認させようとする場合、いかなる手段が考えられるでしょうか。厳密に言うと、相手を説得するという行為は、様々な要素が絡んできて、明確な区別をしにくい面がありますが、ここでは便宜的に四つに分類してみようと思います。

.実力(権力・暴力など)を行使して相手の意見を直接沈黙させる。
.見返りとなる利益(金銭、社会的地位など)を与えて相手の意見を間接的に沈黙させる。
.様々なシンボル(音楽、映像、アジテーション、シュプレヒコール)を使ったり過激な言葉や強い口調を多用したりして人々の感情に訴える。
.なぜ自説が正しいのかを論理立てて証明して人々の理性に訴えて人々の合理的かつ自発的同意を得る。

よくよく考えていくと、これら四つの手段のうち、1から3までの手段は、それほど大きな差がないことがわかります。1から3の手段にとって、他者の意見は、操作の対象でしかありません。自分の意見の正当性よりも、その操作がうまくいったかいかないかが重要となってくるわけです。しかし、4の手段は、このような操作による主張の展開とは質的に異なってきます。4の手段においては、主張の整合性や妥当性が最重視され、それらが確保できなかった場合には自説を潔く引き込める余地も残されています。また、4は、他者を人として尊重し、自分の意見をより高い段階へと発展させていける可能性も有しています。

大きな声をあげて相手を牽制したり、力を背景に言うことをきかせるという手段は、人間以外の動物なども使える手段です。しかし、理性に訴えかけて相手の同意を求める手段は、人間のみが使っています。ゆえに、4の手段は、最も発展的であり最も人間的な主張の展開手段であると言えます(ただし、出発点を「人としての心」に置かずに理性のみに訴える議論は別。これについては後述します)。

議論道場では、4の手段のように、理性に訴えるという方法を用いて相互に意見を述べあう行為を議論と定義したいと思います。もちろん、たとえば3のような手段を「議論」と呼ぶときもありますし、問題を解決する手段として4がいかなる場合も優れているということを主張するつもりはありません。しかし、理性に訴えかける議論は、建設的なコミュニケーション手段の一つであり、次の世代への情報の継承を掲げる”みらい”の理念とも合致すると考えます。

アメリカのモバイル事情

written by 齊藤 貴義 on

DoCoMo F900iTアメリカのモバイル事情について調べていたのですが、KDDI総研の資料が見つかったので共有します。エノテック・コンサルティング代表 海部 美知氏によるもので、2008年と比較的最新の調査です。(右画像Creative Commons License photo credit: raneko)

米国モバイルインターネット基礎講座 第一部(PDF)
米国モバイルインターネット基礎講座 第二部(PDF)

特にデータ通信に関してまとめているのが第二部。比較的キャリアポータルのビジネスモデルがうまくいった日本のモバイル業界に対して、なぜアメリカではキャリアポータルの流れがうまくいかなかったのか解説されています。アメリカではいまだにSMS(Short Message Service)がかなりの影響力を持っているのですね。

iPhoneやBlackberryなどのスマートフォンの登場によって状況は変わりつつありますが、データ通信とコンテンツプロバイダの多様性という点では日本がまだリードしている感じですね。日本の携帯を揶揄して”ガラパゴスケータイ”と呼ばれたりしていますが、スマートフォン以外の分野では日本の携帯市場はまだまだ侮れない。

逆に考えると、日本のモバイル市場で成功したからといって、米国のモバイルに進出できるかというと、市場が未成熟なためかなり難しそうです。ドコモも北米のMモードが失敗したし、米国のモバイル攻略はなかなか難しそうですね。

ブルデューで読書会

written by 齊藤 貴義 on

再生産される学歴

鳩山和夫(東京帝国大学教授・早稲田大学総長)→鳩山一郎(東京帝国大学卒)→鳩山秀夫(東京帝国大学卒・同教授)・鳩山威一郎(東京帝国大学卒)→鳩山由紀夫(東京大学卒)、鳩山邦夫(東京大学卒)
<政治家・教授を多数輩出してきた鳩山家の家系と学歴。→は親子関係を示す>

これは君のことを話しているのだ。 この注意は読者に向けられていると同時に、社会学者にもまた向けられている。逆説的なことであるが、文化のさまざまなゲームは、そこに巻き込まれた人々が互いに相手を客観化しようとして行うあらゆる部分的な客観化行為のおかげで、かえってそれら自体は客観化されることから免れるという仕組みになっている。 だから学者たちは、自分自身の真実をつかむことをあきらめるのでないかぎり社交家たちの真実をつかむことができないのだし、逆もまたしかりなのである。(P.ブルデュー『ディスタンクシオン』藤原書店)

エリボン:そうすると知識人のはたすべき役割とは何なのでしょうか。
ブルデュー: それはもうはっきりしています。装置の言葉が覆い尽くし、装置という怪物が生んだ現実、その現実の理論的分析が欠如しているのです。要するに理論が不在なのです。スローガンや激しい呪詛は、あらゆる形のテロリズムに行き着きます。もちろん、私は社会的現実の厳密かつ複雑な分析がありさえすれば、あらゆる形のテロリズムや全体主義への偏向から免れるに足る、などと考えるほどナイーヴではないつもりです。けれども、こういった分析の不在が勝手な行動に余地を残していることは確かです。これこそが、当世はやりの反科学主義、その新しいイデオローグ達を丸々と太らせてきた反科学主義に逆らって、私が科学を擁護し、 それが結果として社会的生活に関するより良い理解をもたらすがゆえに理論を擁護する理由なのです。・・・科学が権力を正当化する手段になってきているこ と、新しい指導者たちがシヤンス=ポ(国立政治学院)やビジネス・スクールで身につけた政治=経済学という仮象の名において統治していることをちょっとでも見れば、ロマンチックで後退的な反科学主義など導かれるはずがありません。 (P.ブルデュー『社会学の社会学』藤原書店)

la distinction (卓越化)

39掲示板を活用してオンラインの読書会を開催します。読書会では、フランスの社会学者ブルデューが著した『ディスタンクシオン』という本を採り上げる予定です。『ディスタンクシオン』は、ブルデューの主著の1つです。藤原書店から邦訳が出版されています。ブルデュー理論やディスタンクシオンの概念は、近年になって日本でも積極的に紹介され、社会学や哲学の方面を中心に大きな影響を与えています。

グーグルで「ブルデュー」を検索した結果・・・57,100件

” ディスタンクシオン”は、邦訳ではよく「卓越化」と訳されます。他者を自分から区別して際だたせることです。卓越化は社会のあらゆる領域に存在します。例えば「趣味」です。趣味は他人と自分を区別する重要な要素です。そしてまた、趣味によって自分や相手が何者であるのかを評価する傾向も存在します。

例えばパチンコを趣味とする人と、現代絵画を趣味とする人とでは、それぞれに自己規定や他者からのまなざしも変わってきます。世の中には色々な考え方がありますが、一般的に多くの人にとって「パチンコ」よりも「現代絵画」の方が「高尚である」「教養がある」と見なされる可能性が高いでしょう。パチンコを趣味とする人にとって、現代絵画は「何となくよそよそしい」「学校で教えられるようなもの」として否定する対象となる可能性が高いですし、現代絵画を趣味とする人にとってパチンコは「くだらない」「だらしない」と映ったりするでしょう。

それでは、こういう本人の趣味はどうやって形成される のでしょうか。一見すると趣味は本人の自由意思によって決定されるように見えますが、実はその人がどういう趣味を持つかは、その人の出自(両親の学歴・職 業・年収・家庭環境)、その人の学歴、その人の職業などと強い関連性があることが、フランスでも日本でも各種の社会調査によって明らかになっています。特にフランスは日本と比較して、社会の上層に位置する人々と下層に位置する人々との趣味の違いが激しいことが分かっています(美術館のページ参照)。
https://mirai-city.org/%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8%E3%81%A8%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B3%87%E6%9C%AC/

ブ ルデューは、このような卓越化を”ハビトゥス”という概念を用いて説明しようとします。ハビトゥスとは、ある集団に特有の行動・知覚様式を生産する規範システムのことです。例えば上記の美術館のページでは、親が大学教授の13歳の少女へのインタビューが引用されていますが、「特に両親に強制されたわけでもないく」「自分の読みたいものとして」画集を鑑賞し、画家の名前を豊富に挙名することができ、音楽についても古典音楽の巨匠のものを鑑賞していることが分かります。

ハビトゥスについては以下のページが図表入りで参考になるかも。

このように私達にとって見えにくい「文化的な卓越化」が存在し、それは本人を取り巻く社会的属性によって大きく規定されることになるとブルデューは説いています。そして、「学校」や「教育制度」というのは一見すると平等なように見えて、実はある特定の文化を持った人々に有利な状況になっているのではないかと指摘しています。学校教育の内容は例えば文学の解釈とか、論理的思考力、しつけ、言葉遣いやボキャブラリーなどが評価を決定する重要な要素となってきます。その時、文学と慣れ親しんだ家庭環境の中で育ってきた子供と、パチンコやバイクを趣味とする家庭環境の中で育ってきた子供とで、果たして平等に「学校文化」(教育内容の文化的特質)に溶け込むことができるでしょうか?

実は学校は、高度に文化的な趣味を持つ一部の家庭環境を持つ人々にとって有利であり、彼らが社会の中で上に立つのに必要な「正統性」を与える機関にすぎないのではないかと考えることもできます(この辺は今まで暗記編重 の傾向が強かった日本の教育内容とある程度比較して考える必要があります。ちなみにフランスのバカロレア(大学入学資格試験)では文学や哲学などについて論述させる問題が出るそうです)。

ブルデューの理論、特にその日本社会への応用については、議論百出、批判する意見も評価する意見も数多く提出されています。日本は社会階層間の文化的な格差が小さい中流社会であり、フランスの理論を単純に日本に当てはめることはできないという意見、あるいはそのような中流意識は実態の日本社会を正確に反映しておらず、実は日本社会も階層文化によって大きく規定されているという意見等々・・・。そしてその両方の意見が豊富な社会調査に立脚していることに注意する必要があります。私 達自身も批判するにしても評価するにしても、まずは彼がどういう論理展開をしているのか、さらに各種のデータは彼の見解を肯定しているのか否定しているのか、などの検証が必要であろうと思います。とりあえず『ディスタンクシオン』を中心にそういうことをやっていきたいと思っているんですね。

教育社会の成立

天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人皆同じ位にして、生れながら貴賎上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずして各々安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。されども今広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや。

その次第甚だ明らかなり。実語教に、人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり。されば 賢人と愚人との別は、学ぷと学ばざるとによって出来るものなり。また世の中にむつかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむつかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い心配する仕事はむつかしくして、手足を用いる力役はやすし。

故に、医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、数多の奉公人を召使う大百姓などは、身分重くして貴き者というべし。身分重くして貴ければ自ず からその家も富んで、下々の者より見れは及ぶべからざるようなれども、その本を尋ぬればただその人に学問の力あるとなきとによってその相違も出来たるのみにて、天より定めたる約束にあらず。諺に云く、天は富貴を人に与えずしてこれをその人の働きに与うるものなりと。されば前にも言える通り、人は生れながらにして貴賎貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。 (福沢諭吉『学問のすすめ』)

福沢は、身分制度廃止後の社会において教育の有無が地位決定の重要な要素となることを、すでに明治初期の段階で予見していました。実際、近代化が進んだ日本社会において高等教育の有無は地位達成のための重要な要素となりました。戦前は高等教育を受けることができたのはごく一部の人々だけでしたが、戦後は豊かになった庶民も教育に投資と情熱を傾けるようになり、東京大学や名門私大を頂点とした教育機関の序列化の中で人々が競争を繰り広げる教育社会が成立しまし た。

このような教育社会は、「過度な受験競争」や「企業の人材採用段階での学歴主義」など様々な問題点を指摘されながらも、「教育機会は誰にでも開かれている」「頑張れば誰もが上の学校へ進学する可能性が増える」という一般の通念に支えられてきました。しかし近年、このような日本の教育の平等度に対して、疑問を提起するデータが教育社会学の分野などからあがってきています。

東京大学入学者の70%以上が上層ノンマニュアルの子弟

51(1)・・・図1は、東京大学の学生の保護者の職業構成を、過去20年間にわたって示したものである。このグラフが指し示しているのは意外にも、専門・管理職としてくくられる上層ノンマニュアル(医師、弁護士、大学教授などの専門職や、大企業、官公庁の管理職、および中小企業の経営者など)と 呼ばれる階層の出身者の割合が、すでに1970年代から一貫して、ほとんど大きな変化もなく、高い値を示していることである。この20年間に、公立高校から東京大学に入る者の割合は、70%から50%へと大きく変化した。かわって、私立高校の出身者は、30%から50%へと大幅な増加を示す。しかしたとえ、どのような高校を経由してこようとも、もともとの出身階層の構成比率自体にはこの間ほとんど変化が生じなかったということである。・・・東大入学者 は、私立高校の出身者の寡占状態を生み出すずっと以前から、すでに特定の社会階層出身者の寡占状態となっていたのである。

この事実は、次のことを示唆している。すなわち、東京大学に有利な階層の子供達は、有名進学塾に行くための教育費や、私立の中高一貫校の授業料を負担できる「財力」のみによって、有利な立場にあるのではない。それ以上に、この階層と結びついた財力以上の要因が東大入学までのチャンスを強く規定しているということ である。・・・私立高校が優勢になる以前から、専門・管理職の子弟たちは、日比谷や西などの公立高校を経由して、やはり東大にたくさん入学していたのである。

(2)親から子へと家庭で伝達される階層文化を媒介として、社会的不平等が再生産される。こうしたメカニズムは「文化的再生産」と呼ばれる。そして、学校は、この文化的再生産の中で、相続された階層文化−フランスの社会学者、ブルデューのいう 「文化資本」−を、学校での成功に変換し、それによって不平等を正当化する重要な機関と見なされている。

日本でも、家庭で伝達される 文化資本が、学校での成功を左右していることはたしかである。文字や数字などの記号を操る能力、丹念に論理を追う能力、ものごとを捉えるうえで具体から抽象へと飛躍する能力。これらの能力の獲得において、どのような家庭のどのような文化的環境のもとに育つのかが、子供達の間に差異をつくりだしていることは否定しがたい。そして、こうした能力の違いが学校での成功と失敗を左右するであろうことも容易に想像できる。それでも、日本の場合には、学校で測られる学力は、特定の階層から「中立的」であると見なされている。しかも、生得的な能力の差異をなるべく否定し、「子供には誰でも無限の能力、無限の可能性がある」と見る能力=平等観が広まっている。・・・頑張れば誰でも「100点」がとれるとする努力主義信仰も根強い。・・・それゆえ、大衆教育社会が完成の域に達した以降は、特定の階層や集団にとって日本の教育システムが有利にはたらいているという見方それ自体が、多くの人々にとってはあまりピンとこない現実 となっている。・・・実際には学校を通じて不平等の再生産が行われていても、そのような事実にあえて目を向けないしくみが作動しているといえるのである。

不平等を再生産すると同時に、そうした事態を問題視する視線をさえぎる。不平等を正当化するうえで、もっとも有効な方法が、大衆教育社会成立のなかで編み出されているのである。 (苅谷剛彦・東京大学大学院教授『大衆教育社会のゆくえ』中央公論新社)

東京都立大学教育学研究所
「現代と教育実践」研究グループが1990年に行った調査

成績と父親の職業(中学2年生)
ブルーカラー 自営農業 事務販売 専門管理 その他
成績上
19.5
25.7
33.0
45.0
31.3
成績中
34.9
40.6
34.1
29.1
25.0
成績下
45.6
33.7
33.0
25.9
43.8
成績と家庭の年収(単位:万円)(中学2年生)
〜400 400〜600 600〜800 800〜1200 1200〜
成績上
15.4
24.7
37.6
45.6
37.8
成績中
39.7
37.4
26.2
31.5
24.4
成績下
44.9
37.9
36.2
23.0
37.8
成績と母親の学歴(中学2年生)
中学 各種・専門 高校 短大 大学
成績上
19.8
34.0
33.8
45.9
57.6
成績中
29.3
30.2
34.8
31.2
20.7
成績下
50.9
35.9
31.4
23.0
21.7

東大の苅谷は、『大衆教育社会のゆくえ』の中で豊富な社会調査のデータ(右の表など)や、ブルデューの理論を参照しつつ、子供の学力形成や進学に潜む階層間 格差の隠れた実態を指摘し、「日本の教育機会は誰にでも平等に開かれている」「努力して頑張れば誰でも百点が取れる」など世間一般で言われている言説に対して疑問を提起しました。

上記の引用部分は、(1)1970年−1990年の20年間の東京大学入学者の70%以上が、一貫して上層ノンマニュアルの子弟によって占められてきたデータに関する解説部分、(2)ブルデューの文化資本概念をもとに日本の教育社会を解説している部分です。

『大衆教育社会のゆくえ』は出版されるや世間に強い衝撃を与え、有名無名問わず様々な人々がこの本の論評を行っています。

苅谷はさらに、文部科学省の推進する「ゆとり教育」や「総合的な学習の時間」などが子供の全般的な学力低下を招いていると指摘して、最近の「学力低下論争」 の主要な論客の1人となっています。特に、過去のデータと比較して、両親の学歴や職業が低い子供の中ほど、学習意欲・将来志向・実際の学力などの低下が著 しく、テレビやゲームの時間が大幅に増加していることに注目し、このような「インセンティヴ・デバイド」(意欲格差)によって、日本の社会階層間格差が現状以上に拡大していく可能性を指摘しています。

象徴的暴力

1 およそ教育的働きかけは、恣意的な力による文化的恣意の押しつけとして、客観的には、ひとつの象徴的暴力をなすものである。

2 教育的働きかけは、コミュニケーション関係の中で行われる象徴的暴力であり、このコミュニケーションが固有の効果、すなわち象徴的な効果を生じるのは、押しつけを可能にする恣意的な力がまったく事実として決して露わにならない限りにおいてである。また、教育的働きかけは、教え込みのコミュニケーションの中で 達成される文化的恣意の教え込みであり、このコミュニケーションがそれ固有の効果、すなわち固有に教育的な効果を生じるのは、教えられるものの内容の恣意性がまったく事実として決して露わにならないかぎりにおいてである。このようなものとしての教育的働きかけは、必然的に、教育的権威と、その行為の任を託された機関の相対的自律性を、行使のための社会的条件としている。

序文 「象徴的暴力」 violence symboliqueというタームについていえば、これは教育的働きかけを非暴力の作用とみるすべての自生的表象と、自生的重視との絶縁を明瞭に表明して いることがわかる。そしてこの語が必要とされたのは、第一に、象徴的押しつけの二重の恣意性を特徴とするあらゆる働きかけが理論上は一つのものであることを明示するためであり、第二に、象徴的暴力のもろもろの作用(その作用が、民間療法者、呪術者、聖職者、預言者、宣伝者、教師、精神科医、精神分析医のい ずれによって行使されようと)に関するこの一般理論が、暴力および正統的暴力に関する一般理論に属することを明示するためである。この帰属関係は、直接的 には、社会的暴力の様々な形態の間の代替可能性によって立証され、また間接的には、正統な象徴的暴力の学校による独占と、物理的暴力の正統な行使の国家による独占との相同性によって立証されているとおりである。 (P.ブルデュー『再生産』藤原書店)

婚姻戦略

日本の結婚形態別、夫妻の学歴組合せ別、同類婚指数
厚生省「結婚に関する人口学的調査」1983、湯沢『図説現代日本の家族問題』1987
結婚形態 夫の学歴 妻の学歴
中卒 高卒 短大・高専卒 大卒
総数 中卒 2.45 0.52 0.13 0.03
高卒 0.62 1.51 0.48 0.19
短大・高専卒 0.20 0.93 3.53 0.79
大卒 0.10 0.87 2.66 4.16
見合い 中卒 2.23 0.52 0.05 -
高卒 0.54 1.61 0.45 0.17
短大・高専卒 0.13 1.11 3.00 1.24
大卒 0.04 0.83 3.31 4.75
恋愛 中卒 2.65 0.53 0.18 0.05
高卒 0.69 1.45 0.48 0.20
短大・高専卒 0.25 0.83 3.72 0.58
大卒 0.15 0.87 2.29 3.78

フランスの社会学者ブルデューは、現在のフランスにおいてもなおかつ、結婚は生涯の間で一度か二度の、数少ない資源最大化ゲームのための家族戦略であって、 それを「趣味の一致」という名において男女が自発的に行っていると指摘している。今の若い男女は「やっぱり趣味が一緒じゃなきゃね。冬はスキー、夏はテニス、一緒に遊べなきゃね」というが、それではその趣味はどのように形成されるのだろうか。ある名門女子大の卒業生のケースでは、仲良しの3人組がそれぞれ 恋愛結婚の結果、配偶者をみつけたが、その相手は、1人は医者、1人は一部上場企業の取締役の息子、1人はオーナー経営者の息子、というように驚くべきマッチングであった。彼らはどこで知り合ったのか、どういう「趣味の一致」を持っていたかというと、乗馬クラブであったり、ヨットであったり、最初から候補者のスクリーニングがおこなわれている。

データからは、愛する資格、愛される資格には、同類婚の認識が非常に強く働いていて、見合いでも恋愛でも、配偶者選択の落ち着く先はそれほど大きく変わらないという結果が出ている。社会学というのはまことに身もふたもない無粋な学問である。かつて親が「この人を」といって押しつけた相手は、当人にとっては強制に見えてそれに反抗する理由があったのだろうが、現在本人の意思で選んだ相手が親の意 に沿う相手と同じ傾向がある。選択基準は変わらないのに、その内面化が達成されて、人々が「主体的」に行動するとき、それを恋愛結婚と呼ぶにすぎない。 (上野千鶴子・東京大学教授「恋愛結婚の誕生」 『東京大学公開講座 家族』所収)

ライフスタイル

「恋愛結婚」という制度下では、結婚相手の階層はランダムになると思われるが、そうではない。近代的恋愛は、「結婚したいという気持ち」に置き換えられること を思い出してほしい。ただの「好き」という感情なら、階層を越えるかもしれないが、結婚を前提とする恋愛では同一のライフスタイルを志向するもの同士で行われるケースが圧倒的である。それゆえ、夫と妻の階層は、一致しやすい。

ブルデューが言うように、階層は、他の階層との「差異(ディスタンクシオン)」によって確認される。その差異を認識させるのは、趣味や生活習慣などの「ライフスタイル」である。ブルデューは明示的に述べていない が、「家族」こそ、趣味や生活習慣などのライフスタイルを共有する単位なのである。

どの程度の家に住んでいるか、どの程度のモノを所 有しているか、どの程度の趣味をもっているか、どの程度の食事をしているか、そして、どのような職業に就いているか。このようなライフスタイルの内容自体ではなくて、他の家族とのライフスタイルとの差異によって、社会の中での家族のランクが決まってくる。 (山田昌弘・東京学芸大学教授『近代家族のゆくえ』新曜社)

文化資本

商売をはじめる時には普通「資本金」が必要となります。いってみれば「元手」ですね。たとえば、ジュースを売りたいと考えて、ジュースを1つだけ仕入れた場合、損をするリスクは少ないですが、儲けも少なくなります。これに対して、大規模な店を開いて、大量のジュースを仕入れた場合、売れなかった場合のリスクもありますが、売れた場合は大きな見返りを期待することができます。

教育の中で、これに似た考え方をすることがあります。これが 「文化資本」と言われるものです。たとえば、中卒で裸一貫で就職した場合、教育への費用や、教育を受けている間のロス(機会費用)はかかりませんが、その 職業選択範囲や賃金の上昇には限界があることがあります。それに対し、学校で人脈や経営知識を得たり、あるいはどこかで訓練を受けてスキルを身につけた場合、それが職業に結びついた場合は専門家としての見返りを受けることができます。

いずれにせよ、資本が生まれつき平等に備わっているわけではありません。経済資本の問題で言えば、お金持ちの家に生まれる人と、そうでない人があります。では、文化資本の場合はどうであるか、たとえば、 職人の家庭に生まれた人は、その技術を多かれ少なかれ学び取って育つことになります。バイリンガルの家庭に生まれた 人は小さい時から外国語を話すことを覚えることができます。これを経済格差と同様に環境の不平等として捉えることもできるでしょう。

教育社会学の中で、しばしばこの文化資本が問題となることがあります。社会の中で、学歴が高いほど、職業選択の自由が多く、また、賃金や社会的威信が高い職業につく可能性が高いことになっているのですが、この学歴取得の決定因は日本では経済資本よりもむしろ学力にかかっていると考えられています。日本の国立大学の学費は私立よりも安く押さえられ、学力さえあれば家庭環境に関わらず入学できることから、経済的な格差というものが見えにくいからです。しかし、 その学力が学校で誰でも平等に身につくものではなく、家庭環境の影響が大きく、学校ではただ選抜だけを行っているのではないか、という指摘があります。

これまでの統計的な事実として、学歴の高い親の子供ほど、学力が高い、また学歴が高くなる傾向があります。これは学歴が高ければ収入が高い傾向にあり、そのために進学校に子供をやったり、塾に行かせたりという教育投資が可能なのが一つの理由です。しかし、それと同時に家庭で伝達される文化資本の格差の影響 も考慮しておく必要があります。経済格差は、社会のシステムを変えることである程度の是正は可能です。しかし、文化的格差を埋めることは簡単ではありませ ん。このために、学力に基づく学校での選抜が、経済的、文化的な社会の不平等を正当化させる機能を持っているという一面も存在しています。 (みらい 「文化資本って何だろう」)

文化資本(2)

文化が資本であることを理解するためには次のようなことを想起すればよい。劇場やコンサートは入場料自体はほとんどの人々がアクセスできる範囲にある。にもかかわらず現実にこれらを享受するのは特定の人々に限られている。クラシック音楽や古典劇を理解可能にするコードがなければ楽しくないし、意味不明である。したがって文化財を理解可能にするコード所有者には富めるものがますます富むという文化資本の拡大が生じる。資本の拡大は貨幣や財産に限らない。しかもこのような文化資本は教育達成(学力、学歴)に有利なコードとなる。上層階級の家庭には「正統」文化が蓄積されているからである。正統文化とは高級で価 値が高いと見なされる文化である。クラシック音楽や古典文学は正統文化であり、演歌や大衆小説は正統文化から距離がある。学校で教育されるのは文化一般で はなくこうした正統文化である。 (竹内洋・京都大学教授『日本のメリトクラシー』東京大学出版会)

芸術資本

社 会学者ブルデューらが1960年代にフランスの美術館に対して行った調査によると、観客全体に占める比率では、農業1%、生産労働者4%、商人・職人 5%、事務職および中級管理職23%、上級管理職・専門職45%となっていました。全就業者の5%に満たない上級管理職・専門職が観客の4割以上を占め、 就業人口の4割近くを占めるはずの生産労働者は美術館の観客全体の4%でしかなかったのです。

・・・ブルデューは、現代美術のように 高度に抽象化された絵画を「鑑賞できる」のは、生まれつきの先天的な才能によるよりも、どれくらい鑑賞に必要な知覚を自分のものとして集められるかという、後天的な要素によるところが大きいと考えました。そしてこの鑑賞に必要な知覚は、財産のように各階層それぞれにばらつきがあると考え、それを芸術資本と呼びました。象徴財としての芸術作品そのものは、それを解読しうる鑑賞眼、すなわち芸術資本が必要であると説いたわけです。

・・・ 一方、上層階級の側については、ブルデューが「意識的に学ぶこと」なしに美的性向が獲得される傾向にあると指摘しています。実際、ブルデューらがインタ ビューしたパリの上層階級の少女は、両親から何の圧力を受けることもなく意図も努力も感じさせずに広汎な教養を示すことができました(下記参照)。

「美 術館にはよく行きますか?」「あまり行きません。リセではあまり美術館には行かなくて、歴史博物館に行くことの方が多いですね。両親はどちらかというと劇 を見に連れていってくれます。美術館にはあまり行きません」「好きな画家は?」「ヴォン・ゴッホ、ブラック、ピカソ、モネ、ゴーギャン、セザンヌなんか。 でも、現物は見たことがありません。家で画集を見て知ったんです。ピアノは少しやります。それだけ。音楽を聴くのは大好きだけど、自分で弾くのはあんまり ね。バッハ、モーツァルト、シューベルト、シューマンなんかはたくさんあります」「ご両親は読書を勧めますか?」「自分の読みたい本を読みます。家にはたくさん本があるから、読みたいと思った本をとるんです」(大学教授の娘、13歳、古典教育課程第4学級(日本の中学2年から3年に相当))

こうした態度形成は、第一に芸術作品への時間をかけた日常の慣れ親しみ、第二に親たちの非指示的ですが暗示に満ちた言葉や見方の取り込み、第三に知識としてよりも慣習的行動としてのそれらの内化(身体化)などが要因として挙げられると考えられます。 (みらい 「美術館」)

野郎ども(leds)の文化  (ブルデューとは別の人の研究ですが関連性があります)

イギリスの社会学者ポール・ウィリスは、イギリスの学校の研究を通じて、「生徒の側の服従や礼儀や敬意に見合う反対給付」は、職業機会といった客観的な等価物に置き換えられなくても、「主体的な参加の気構えだとか、人間性だとか、社会的責任などといったあいまいな」道徳的なものへと移し替えられることを指摘し、これを「教育的交換の神秘化」と呼んでいます。ウィリスは次のように述べています。「教育の理念的な枠組みに立ち返っていえば、生徒が努力して獲得するに値するものは、いまや知識や成績証明ではなく、むしろ謙譲とか礼儀正しさといったようなものそれ自体である」と。

「勉強すること」は、それを通じて得られる知識や成績という「客観的な等価物」を生み出すだけではなく、「つらさを知る」という「道徳的な」意味をあわせもつということでもあります。「勉強をうんとやるということ」には、(良い成績を取って望ましい就職先の獲得につながるという)教育達成と職業機会との交換関係を越えた意味が与えられます。

ウィリスの描いた「野郎ども」(下層出身の子供達)は、その鋭い「洞察」によってこうした交換の虚偽性を見抜いたとされています。ウィリスの議論では、労働者階級の文化と密接に結びついた生徒の反学校的文化との対応の中で、教師達は教育的交換の基本パラダイムを変質せざるをえなくなります。さらにウィリスは、野郎どもが学校や教師に反発しながら、彼ら自身の「たくましい肉体労働への信仰」と「女々しい事務労働へ の軽蔑」から、自ら進んで過酷な肉体労働を引き受け、結果として野郎どもの文化が社会秩序を再生産しているという逆説を明らかにしました。日本でいうガテン系(リクルートの肉体労働専門雑誌『ガテン』に掲載されている仕事)へのあこがれにも、これに通じる部分があると思われます。

しか し、竹内も苅谷もイギリスの野郎どものような対抗文化の形成が日本の職業高校には見られなかったことを指摘しています。その理由はまだ明確になっていません。竹内は、日本の下層階層のライフスタイルがホワイトカラーに近似しているからではないかという仮説を提示しており、苅谷もイギリスの階級対立とは異なって日本にはそのような洞察を生み出す歴史的背景が存在しなかったのではないかとする考えを示しています。この点についてはさらなる研究が必要ですが、 学校への対抗文化の形成が見られないことも、日本の職業高校の安定作用として機能している面があることは確かであると言えます。 (みらい 「職業高校の内部過程」)

ディスタンクシオンの視点

ブルデュー死去

68 年学生運動のバイブルといわれたJ・C・パスロンとの共著「遺産相続者たち」(64年)で注目を集め、その後「ディスタンクシオン」(79年)、「実践感 覚」(80年)などの著書で広く世界に知られた。「ハビトゥス」「文化資本」などといった独自の概念を駆使。綿密な社会調査の結果と突きあわせながら、教育や階層化の問題などに取り組み、広い分野の研究者に影響を与えた。また、積極的な社会的発言でも知られ、近年では、グローバリズムに反対する代表的な論者の一人だった。 (朝日新聞 1月24日付)

ピエール・ブルデュー氏(仏社会学者)24日、 パリ市内の病院でがん闘病の末、死去。71歳。1960年代初め、仏高等教育の硬直性を批判した共著書「遺産相続者たち」で注目され、68年のパリ大学紛争に影響を与えた。現代を代表する社会学者で、「実際行為」「場」など独特の概念を駆使しながら、階級、大学、芸術など幅広い世界に潜む権力や差別の構造を分析した。代表的著作に「ディスタンクシオン」「芸術の規則」などがある。 (読売新聞 1月24日付)

ひとりの社会学者が死んだ。時を移さず、その国の大統領、首相が哀悼のコミュニケを発表する。それをラジオが繰り返し報道する。続いて社会党、共産党、緑の党、トロツキスト党、さらには保守政党までが、また共産党系、社会党系、独立系の諸労組が同じく惜別のメッセージを流す。その時のテレビ各局のニュースが トップで取り上げる。前に放送したインタビュー、あるいは討論番組を再放送して回顧特集を組む。その国を代表する新聞が翌日の一面でトップ報道した上、中の二頁を費やして、その生き様と業績を紹介する。その翌日はさらに六頁の特集。しかも社説でその人柄と行動を論評する。翌週、知識層を対象とした週刊誌二つがそれぞれ十六頁、二二頁の特集を組む。読者がそれぞれの思いをメールや手紙で寄せ、それが日刊紙の投書欄の全面を埋める。ピエール・ブルデューの死が 巻き起こした反響はそのようなものだった。 (加藤晴久・恵泉女学園大学教授「ブルデュー追悼」 『現代思想』(青土社)3月号所収)

とても古くからの友人で、多くのことをともに経験してきました。わたしたちの友情はつねに激しく、そしてとても豊かで、緊張感のあるものでした。たしかにときには難しいこともありましたが。彼の死のニュースには動揺しています。 (デリダが『ル・モンド』誌に寄稿した文章)

ピ エール・ブルデュー氏の訃報に接した瞬間、しばし言葉を失った。かねてから病気だとは聞いていたが、まさかこれほどにも死期が間近に迫っていようとは。バルトの事故死に始まって、ラカン、フーコー、アルチュセール、ドゥルーズ、レヴィナスと、二十世紀を代表する思考者たちがついに今世紀の訪れを目にするこ となく次々と世を去った後、デリダとともに世紀を越え、フランスの、いや世界の言論界を牽引してきたブルデューの死は、まさに「思想家の時代」の終焉を告げる象徴的な出来事である。私にはそう思えてならない。 (読売新聞 1月30日付 石井洋二郎氏の言葉)

「世界でももっとも才能にあふれ、もっとも有名な知識人のひとりだった」「ブルデュー氏は社会参加と不可分の科学として社会学を実践した。世界の悲惨に見舞われている人々のための彼のたたかいはそのことを見事に示している」 (シラク大統領の言葉)