議論とは何か
私たち人間は、一人で生きていくことはできません。そのため、家族、学校、企業、地域、国家などの様々な集団に所属し、その中で「他の誰か」と共に社会生活を送っています。この世界に一人として同じ人間がいない以上、そのような状況の中では、様々な問題群を巡って、認識や考えの違いが表面化してくることがあります(右写真 photo credit: hapal>)。
この場合に取りうる選択肢として、まず次の二つがあると思われます。1.自分の意見を表に出さずに当面の対立を回避する、2.自分の意見を主張して相手に同意を求める(より良い意見を探す)。この1と2の選択のうち、どちらが望ましいかは、状況や個人の信条などに大きく左右されるため、一言で決めることはできません。
しかし、争点となっている事柄が自分にとって重要な問題である場合、または、その問題に関して自身の見解を他者から要求されている場合などには、自己の主張を展開し、相手を説得する必要性が生じてきます。それでは、相手に自分の主張を承認させようとする場合、いかなる手段が考えられるでしょうか。厳密に言うと、相手を説得するという行為は、様々な要素が絡んできて、明確な区別をしにくい面がありますが、ここでは便宜的に四つに分類してみようと思います。
1.実力(権力・暴力など)を行使して相手の意見を直接沈黙させる。
2.見返りとなる利益(金銭、社会的地位など)を与えて相手の意見を間接的に沈黙させる。
3.様々なシンボル(音楽、映像、アジテーション、シュプレヒコール)を使ったり過激な言葉や強い口調を多用したりして人々の感情に訴える。
4.なぜ自説が正しいのかを論理立てて証明して人々の理性に訴えて人々の合理的かつ自発的同意を得る。
よくよく考えていくと、これら四つの手段のうち、1から3までの手段は、それほど大きな差がないことがわかります。1から3の手段にとって、他者の意見は、操作の対象でしかありません。自分の意見の正当性よりも、その操作がうまくいったかいかないかが重要となってくるわけです。しかし、4の手段は、このような操作による主張の展開とは質的に異なってきます。4の手段においては、主張の整合性や妥当性が最重視され、それらが確保できなかった場合には自説を潔く引き込める余地も残されています。また、4は、他者を人として尊重し、自分の意見をより高い段階へと発展させていける可能性も有しています。
大きな声をあげて相手を牽制したり、力を背景に言うことをきかせるという手段は、人間以外の動物なども使える手段です。しかし、理性に訴えかけて相手の同意を求める手段は、人間のみが使っています。ゆえに、4の手段は、最も発展的であり最も人間的な主張の展開手段であると言えます(ただし、出発点を「人としての心」に置かずに理性のみに訴える議論は別。これについては後述します)。
議論道場では、4の手段のように、理性に訴えるという方法を用いて相互に意見を述べあう行為を議論と定義したいと思います。もちろん、たとえば3のような手段を「議論」と呼ぶときもありますし、問題を解決する手段として4がいかなる場合も優れているということを主張するつもりはありません。しかし、理性に訴えかける議論は、建設的なコミュニケーション手段の一つであり、次の世代への情報の継承を掲げる”みらい”の理念とも合致すると考えます。